白洲次郎 HISTORY
百八十センチを超す長身、端正な顔立ち、英国流の洗練された身ごなし。 趣味は車と大工とゴルフ。そんな次郎を夫人・正子は「直情一徹の士(さむらい)」「乱世に生き甲斐を感じるような野人」 と評しています。「しょせん平和な世の中に通用する人間ではなかった」とも。
次郎は明治三十五年、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に生まれました。大正十年、中学を卒(お)えた次郎はイギリスに渡り、 大正十二年にはケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学、生涯の友ロバート C. ビンと出会います。
ストラッフォード伯爵家の御曹子。車好き、英語でいう「オイリー・ボーイ」で、次郎の車熱に拍車がかかりました。 ベントレー、ブガッティを所有し、週末はレースに熱中。ロバートとベントレーで長い旅行にも出ました。一方、 寄宿舎では英国流の紳士道を徹底的にたたきこまれます。
昭和三年、家業が倒産したため帰国。翌年、正子と結婚します。倒産の影響で、次郎の肩には十人以上の家族の生活が かかっていました。にもかかわらず、英字新聞の記者、英国商社、それから日本の貿易会社と、職業は安定しません。
「そういういわば風来坊的人間に、目をつけたのが吉田茂氏である」と正子は言います。吉田茂は終戦直後の内閣で 外務大臣に就任すると、直ちに次郎を中央で終戦連絡の事務に当たらせます。GHQの矢面に立たせたわけです。
それより先、昭和十五年に次郎は、日米戦争は不可避だが、参戦すれば日本は負けると断じて職を退き、疎開の 準備に入ります。十八年に東京郊外・鶴川に移転してからはもっぱら農業に従事しました。
地方に住みながら中央の政治に目を光らせ、いざ鎌倉というときには中央へ出て、彼らの姿勢を正すといった人間を、 イギリスでは「カントリー・ジェントルマン」と呼びますが、いかにも次郎にふさわしい言葉です。占領下でありながら、 言うべきことを堂々と主張する次郎に、GHQ側はほとほと手を焼いたようです。本国には「従順ならざる唯一の日本人」 と報告しています。
昭和二十五年には首相となった吉田茂の特使として、アメリカに渡って平和条約のお膳立てを果たし、翌年のサンフランシスコ 講和会議には首席全権委員顧問として出席しました。
昭和二十六年から三十四年までは、東北電力会長として、戦後の電力再編に務めます。ヘルメットにサングラス、長靴で、 みずからランドローバーを運転して、ダム工事現場をまわるような異色の会長でした。
晩年の次郎が心血を注いだのが、軽井沢ゴルフ倶楽部です。芝の手入れから、従業員の生活、会員の行儀にいたるまで、 ひとつもゆるがせにしませんでした。正子は「歴代総理大臣には随分迷惑をかけたに違いない」といいますが、会員でなければ、 総理大臣でも追い返す、SPをコースに入れるなどもってのほかという姿勢を崩しませんでした。
その生涯を貫いたのは「プリンシプル、つまり原則に忠実である」という信念です。「まことにプリンシプル、プリンシプル、 と毎日うるさいことであった」と正子は回想しています。
八十になるまでポルシェ911を乗り回した根っからの「オイリー・ボーイ」。最後に残した言葉は、「右利きです。夜は左……」。 注射のため利き腕をたずねた看護婦に、そう答えたそうです。
勢いよく書かれた遺書にはたった二行
「葬式無用、戒名不用」とありました。
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