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正子の母。海軍大将、海軍卿として「薩の海軍」の基礎を築いた川村純義の長女。純義は海軍を辞した後、皇孫(昭和天皇と秩父宮)の養育掛りをつとめた。常子は歌を佐々木信綱に師事し、歌集に『富士の裾野にて』がある。
《若い頃の写真を見ると、その頃のはやりであろうか、小さいからだには細かい柄の着物のふきの太いのが痛々しく見えるほどで、その顔は透き通るように白くかぼそい。からだは細く丈は低くとも、母はその小さなからだ中にあふれるばかりのセンス・オヴ・ヒューモアと、異常なイマジネーションをたくわえていた。そして弱いからだにも似ず、何時も機嫌よく、傍の見る眼も羨ましいほど、一日一日を愉しんで送っていた。
私などとくらべると、お姫様育ちで、うき世の事はあまり知らなかったらしい。無駄づかいはしなかったが、非常に贅沢ではあった。その贅沢さは、趣味の上に、思想の上にまで及んで、生半可の事は嫌いであったから、むしろこれは母の長所であったと信ずる。
今でも母の集めた本が家中に入りきれないほど遣っている。中には、一生のうちに読む事の出 来なかった様な分厚な大巻もあるけれど、
「自分が読まなくても、子孫の中にこの蔵書をほんとうに有り難く思ってくれる人が一人でもあったら、それで自分は満足である」
といいいい、買い集めていた。晩年十年あまりの長い病にも、いやな顔ひとつ見せず、
「人は死ぬその日まで進歩しなくては」
といって、愚痴ひとつこぼさずに終わったのも、この様な趣味の故である。》
(白洲正子「母の憶い出」より)

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