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白洲次郎の父。実業家。三田藩九鬼氏の家老の家に生れる。アメリカのハーバード大学に留学し、卒業後はさらにドイツのボンに学んだ。帰国後、三井銀行、次に鐘紡に勤めるがほどなく独立。綿貿易商「白洲商店」を営み、財を成したが1928年、金融恐慌のあおりを受けて倒産した。桁外れの豪傑で逸話に事欠かず、自宅に大工を住まわせるほどの建築道楽だったという。
《僕はよく傍若無人だと言われるが、僕の死んだおやじに比べれば、傍若無人なんておよそ縁が遠いと思う。死んだ親父は、こういう人だった。
建築道楽で、家ばかり建てていた。道楽はたくさんあって、ほかの、あまり言いたくない道楽もあったが、そして、いつでも建てる家は日本館にきまっている。僕のおやじは外国育ちの男だ。そこで西洋館は靴を脱がないでもいいから西洋館がいいじゃないかと言ったら、外国じゃ道がとてもきれいだ。だから靴のまま上ったって汚くない。だけど日本みたいな、こんな汚い道を歩いて来て、そのまま上られたらたまらない、だから日本館がいいと、言う。ところが、そのおやじは靴履いて畳の上を歩くのだ。そして人が汚いじゃないですかと言うと、俺は別だと言って澄している。これがほんとの傍若無人というものだ。
僕のおやじは、子供のときから外国育ちで、ほんとの意味のお洒落だった。晩年は九州の、大分と熊本との国境に、百姓をして独りで住んでいた。もっとも女中かなんかはいたけれども、東京に来るときは、木綿の刺子の紺の股引をはいて、上にはツイードの洋服を着て、荷物は全部猟に行くときの網に入れて、それで東京に来て平気で歩いている。そういう人だった。死んだという電報が来たので、妹が行ったら、ベッドに独り死んでいて、ベッドの下を見たら、棺桶が入っていた。それはほんとの田舎で、身体が大きいから、出来合いの棺桶ではあとの者が困るだろうというので、前からつくってあったのだ。こういうことも皆傍若無人の現われといえよう。》
(白洲次郎「日曜日の食卓にて」より)

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