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五摂家筆頭の公爵家に生れた政治家。アジア主義者だった父・篤麿(あつまろ)の縁で、頭山満(とうやまみつる)ら右翼と関係を持つ一方、京都帝大でマルクス主義者・河上肇(はじめ)の指導に接した。18年、ベルサイユ講和会議に随員として出席。33年、貴族院議長。37-41年の間に3次にわたって組閣。国家総動員法の成立、日独伊三国同盟の締結、大政翼賛会の創立など、大平洋戦争前夜の国政を担った。41年、日米交渉を開始するも10月に総辞職。敗戦直後、国務相として憲法改正案の起草にあたったが、戦犯容疑者指名をうけ、出頭当日の45年12月16日未明、服毒自殺した。
《悲劇の政治家の標本みたいにいわれている近衛文麿氏も、私には非常に印象の深い人である。
近代の政治家であの人ほど頭脳明晰だった人は少かったろう。しかしおしむらくは、公卿の特性として決断力にはかけていたように思う。一面気の弱かった反面に、またとても常人には考えられない一種特有の図々しさというか、盲者蛇におじず的のところがあった。
例えば、終戦前に天皇と対談中に足を組むなんていう態度で話をした「臣下」は、他には一人もいなかったと聞いている。おそらく今でも一人もいないのではないだろうか。また近衛内閣の時に、右翼の動向に腹をたてて当時泣く子もだまるほどの絶対貫禄の持主、頭山満翁を呼びつけたという一幕も、あの時分に政治家で頭山翁を呼びつけるなんていうことは、はなれわざどころの騒ぎではなかった。頭山翁との会談一回だけで、右翼の動きは一ペんにおさまったのは、御両人ともさすがであると、感心したことを今でもおぼえている。
そんな強気の反面、自分の子供にすら小言を言えなかったような弱気の面もあった。この弱気さはほとんどだらしなさに通じるものであった。戦死した長男の文隆はとても可愛い奴であった反面、一種の不良性も充分に持ち合わせていた。この長男に全然面と向って小言が言えなかった。文隆にこういってくれ、ああいってくれ、とよく御用命を仰せつかったものだ。
ある時、麹町永田町の私宅の二階で文隆をつかまえてどなりあげていた最中に、御自身二階にあがってきて、私のあまりの剣幕に、「そんなにいわなくても文隆はわかるよ」と泣きをいれたので「これはもともと、あなたの指図でやっているのですよ」と暴露したところ、ほうほうの体で階下に逃げさったような滑稽な場面もあった。》
(白洲次郎「吉田茂は泣いている」より)

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