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外交官・政治家。土佐自由党の竹内綱の五男として東京に生まれ、幼児に吉田家の養子となる。東京帝大卒業後外務省に入省、駐伊・駐英大使を歴任。45年9月、外相に就任。46年から54年の間に5次にわたって内閣を組織。51年にはサンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約に調印した。
《吉田さんは、昔から金のかかる人だが、その上に昔の困ってる友達の世話をしてるし、貧乏になる一方である。あの人は、あまり長生きしたら、しまいに食い詰めてしまうであろう。この次売るものは、もうちょっぴりしか残っていないだろう。
金のことは、およそわからぬ人だ。これは事実だ。ロンドンにいた時分だが、あの人は、腹が出てるので、シャツがぴったり身体に合わない。どうもシャツが工合わるいって不平をいうので、ロンドンのシャツ屋ではこの右に出る者はないという所を紹介してやった。高いことも高いが、ちゃんと仮縫をして作るのだ。それが気に入ったと見えて、夜会服のシャツを何ダースに、普通のシャツを何ダースか注文した。その時分、大使館の会計は、麻生和子がみんなやっていた。あの家のうちで、金勘定のわかるのは、和子だけである。そこへ勘定書が来て、和子が驚いた。そしてよけいなものを紹介したからだと、非難が一ぺんに僕のところに来たことがあった。
あのくらい純情で、あのくらい涙もろい人はザラにはいない。また、あれだけ頑固な人もいない。それにあれだけ自分の命というものに対して恐怖心をもっていない人も、ほんとうに珍しい。》
(白洲次郎「日曜日の食卓にて」より)

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