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日本画家。日本橋に江戸時代から続いた料亭の家に生まれる。14歳で大和絵師小堀鞆音(ともと)に入門。1907年岡倉天心を中心とする国画玉成会の創立に加わる。12年文展に代表作「夢殿」を発表。44年より51年まで東京芸術大学教授。良寛の研究でも知られる。
《先生のお宅は大磯の山手の方で、私の里の隣りにあります。そんな御縁から、長い間のお付き合いですが、その温厚なお人柄は、隣人として、この上もない存在でした。何かわからないことがあると、すぐ先生にうかがいに行く。うれしいことがあると、報告する。お仕事中でも、その度に相手になって下さるという具合で、此方にとっては、この上もない隣人でも、今から思うとずい分御迷惑をかけたに違いありません。
父や母にしても、同じことでした。家を新築するといっては相談し、庭を作るといっては意見を聞く。母が亡くなった時なぞは、遺作の歌集の装幀まで、ひきうけて頂く始末でした。
その本のことで思い出すのは、印刷は出来上がっているのに、表紙の絵が中々きまらない。ある時、父と二人で落葉の中を散歩していると、偶然先生にお会いしたことがあります。見ると、
美しく紅葉した葉を二、三枚持っていらっしやる。
「こんなに落葉はあるのに、気に入ったのはないものですねえ」
表紙の絵のことを考えていられたのです。後にその本は、美しく出来上がりましたが、そんな些細なことも、おろそかにしない方であることを、私はその時知ったのでした。》
(白洲正子『ものを創る』より)

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