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1900年東京美術学校西洋画選科に入学、同期には青木繁がいた。09年文展で「蝋燭」が褒状。母の死を契機に帰郷し、木曽で5年間を過ごす。15年上京し、制作復帰。16年二科会会員。以後42年まで毎回出品する。54年より団体を離れ、67年には文化勲章を辞退した。
《先生の生活の大半は、動物や植物とともにあり、その作品も底ぬけに明るいが、「蝋燭」の名画で世に出た画家の仕事は、依然として暗闇の密室の中で行なわれているのだ。これは大変興味のあることで、底ぬけに明るい絵が、平板に見えないのは、そこに長い人生を生きぬいた人の、深い喜びと悲しみの裏打ちがあるからに他ならない。もっともわかりやすくて、わかりにくいのが、熊谷守一の作品であり、その人間ではないかと私は思う。
たとえ一度だけでも、そういう人物にめぐり会えたことを、私は生涯の幸福と思っていた。それから二、三年経って、はからずも「心」という雑誌から対談の依頼があり、再びお目にかかることができたのは、今年(昭和五十年)の初夏のころである。さすがに九十五歳の高齢では、少し耳が遠くなっておられたので、奥様に加わって頂き、楽しいひと時をすごすことができた。
その対談の中で、先生は昔から音楽が好きで、最近ヴァイオリンを買った話をされた。買ってはみたものの、どうしてもいい音が出ない。「できないことは、面白いですね」と、ほんとに面白そうに笑いながらいわれた。できないことの面白さ──それは私が生まれてはじめて耳にする言葉であった。とたんに今まであくせく暮らしていたことが、つまらないものに思われて来た。この御夫婦とつき合っていると、気もはればれと天外に遊ぶ心地がする。対談の中で私は、「お庭が三千世界みたいに見えます」といったのは、けっして誇張ではない。はじめてお邪魔した時からの、強烈にして不可思議な感動である。》
(白洲正子『鶴川日記』より)

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