| 《友だちとしてはまことに付合いにくい人間であった。「黙って物をつくっていればどんなにか立派なのに」。何度かそう思いもし、いいもした。が、それはどうにもならなかった。しまいには友だちばかりでなく、肉親にも弟子にもそむかれたが、私がもし小説か人物論を書くとしたら、その興味は、俗物としか呼べないようなタダモノに、あのような美しい作品が造れたことにあるといえよう。この矛盾は、生涯彼を苦しめたに違いない。そこに魯山人の、人間としての哀れさがある。
私は今お葬式から帰ってこれを書いている。それはわずかの身内と、こっとう屋さんやお料理屋さんだけのさむざむとしたお弔いだった。が、心酔者のほかだれとも折合えなかった人間も、死んでみれば、物だけが残る。やがて魯山人にまつわりついた様々の伝説は消え、作品が一人歩きをはじめることだろう。芸術家にとってこれ以上本望なことはない。だが、しんしんと冷え行く師走の夜、やっぱり思い出されるのは、尊大なあから顔でもなく、美しい作品の数々でもなく、肩をいからしているくせに、いつも寂しそうに見えたあの後ろ姿である。》
(白洲正子「魯山人をおもう」より) |