正子の後半生を決定づける出会いでした。「切り込んで」というのは、 あながち誇張した表現ではないでしょう。「割って入」ろうとするたびに、言葉で痛めつけられ、酒が呑めないと罵られ、 泣かされたあげく、三度も胃潰瘍になって血を吐いたというのですから。
朝から明け方近くまで、東奔西走(とうほんせいそう)する正子を、青山二郎は「韋駄天お正」と命名しました。 「韋駄天お正」の健脚ぶりは、後年になっても衰えを知りません。『西国巡礼』『かくれ里』『近江山河抄』 『十一面観音巡礼』といった名紀行を生む旅は、五十代なかばから、六十代にかけてのことでした。険しさをものとも しない足どりは、しばしば若い同行者を驚かせています。
ただ足を運ぶのでなく、社寺であれば本殿、仏閣のさらに奥に、 何かあるはずだと、藪をかきわけ、道なき道をたどらずにはいられない。天性のカンだったのでしょうか。さも当然の ような書きぶりですが、そうした「発見」は、白洲紀行の大きな魅力です。
七十歳を迎えようとするころから、正子はかけがえのない人たちを矢継ぎ早に失います。青山二郎、河上徹太郎、小林秀雄、 そして夫・次郎まで。哀しみは察してあまりあるでしょうが、この世とあの世の境など、もはや意味をもたなかったのかも 知れません。
八十になんなんとしてなお、能楽師・友枝喜久夫の「おっかけ」と称して、九州まで追って行き、ほしい骨董はないかと眼を 光らす。骨董買いは最晩年まで続きましたが、親子といえどもライバルで、譲るといった手心は加えなかったそうです。 白洲正子の生涯は、最期まで「真剣勝負」だったのです。